「戦争で死ぬのは、父のような下っ端じゃないか」遺族のわだかまりを解いた、元上官のある言葉とは #戦争の記憶

AI要約

沖縄戦で戦死した松倉秀郎さんとその妻ひでさんに焦点を当てた記事。ひでさんが残した手紙が子供たちのもとに返還され、感動の再会が描かれている。

子供たちが父や母に関する記憶を語り、それぞれの人生が父親の教えに影響を受けていることが明らかになる。

長男が教育者としての道を選び、家族に命を大切にする教えを受け継ぐ。戦地の苦難を繰り返させず、平和を願う姿勢が描かれる。

「戦争で死ぬのは、父のような下っ端じゃないか」遺族のわだかまりを解いた、元上官のある言葉とは #戦争の記憶

「この世の地獄」と形容された沖縄戦で、無念のうちに戦死した松倉秀郎さん(=上等兵、享年35)と、若くして3人の幼子のシングルマザーとなったその妻・ひでさん。

 秀郎さんが所属した第24師団歩兵第32連隊・第1大隊を率いていた伊東孝一大隊長は、部下のおよそ9割を死なせてしまった罪の意識から、戦後、その遺族たちに宛てて「詫び状」を送り続ける。「許されるものなら、私も夫の後を追いたい」――大隊長へ宛てた往信のなかで、率直な思いを打ち明けたひでさん。

 

 それから数十年もの時が流れ、ひでさんの手紙は、その子どもたちのもとへと「返還」されたのだが――。

※本記事は、浜田哲二氏、浜田律子氏による初著書『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部を抜粋・再編集し、全3回にわたってお届けする。【本記事は全3回の第3回/ 第1回から読む】

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 松倉秀郎さんの妻・ひでさんが書いた2通の手紙は、2017年8月、長男・紀昭さん(80歳)と長女・恭子さん(74歳)へ返還した。私たち(注:筆者であるジャーナリスト夫妻)が訪ねた時、残念ながらひでさんはすでに亡くなっていた。

 秀郎さんとひでさんの間には、3人の子どもがいた。長男と、その下には双子の姉妹。戦争未亡人になったひでさんは、役所の支所に勤めながら幼子を立派に育て上げる。

 かつて母が書いた2通の手紙の内容に触れ、顔を覆って泣いていた双子姉妹の姉・恭子さんが咽び声で言葉を絞り出した。

「父のことは記憶にないの」

 祖父の家で風呂に入れてもらった帰り道、母に背負われて、夜空を見上げたのが忘れられない想い出だという。

「ほら、あの一番輝いているのがお父さんの星よ、と母が指さすの……」

 その後は言葉にならず、誰はばかることなく号泣する。

 松倉家の長男・紀昭さんは幼い頃、警察官だった父に連れられて刑務所の見学へ行った。

 そこで父が言う。

「悪いことをした人を罰するより、悪いことをしない人を育てることが大切だ」

 戦地から送られてきた思いやりに溢れる手紙のなかにも、長男への訓示が綴られている。

「母に苦労を掛けず、勉学に励みなさい」

 こうした教えを受けていたゆえ、貧しい暮らしで苦労した母を助けるため、高校を卒業したら、すぐに就職しようと準備していた。

 ところが、進路相談の折に母から突然、伝えられる。

「あなたは教育者になりなさい。それがお父さんの願いでもあり、遺言よ」

 驚いたが、父の言葉が蘇った。

「悪いことをしない人を育てることが大切だ」

 紀昭さんは苦学して教育大学へ進み、小学校で教職に就く。父の願いを叶え教育者となり、教え子を決して戦場に送るまい、との決意で平和教育に力を注いだそうだ。

 戦禍の艱難辛苦に翻弄される生き方を、次世代にはさせたくないと心に誓う紀昭さん。自らの子どもも教育者として育て上げ、孫は医師になった。父母から引き継いだ、命を大切にする教えを家族にも伝え、今後も貫きたいと話している。