「あんたたち、私より前に出たらダメよ」毅然とソ連兵に向かい、自ら「犠牲」となった遊郭出身の若い女性

AI要約

1945年8月、朝鮮半島での敗戦後、北緯38度線を越えることになった日本人難民の苦難が描かれる。

神埼一家など数万人の避難民が西や南に向かう決死の避難行動を開始し、性的暴行から逃れるために身代わりの女性を準備する事例があった。

祖国を救出する大胆な計画を立てた一般人の活躍や避難民たちの過酷な旅が綴られる。

「あんたたち、私より前に出たらダメよ」毅然とソ連兵に向かい、自ら「犠牲」となった遊郭出身の若い女性

 1945年8月、朝鮮半島。敗戦の10日後には38度線が封鎖され、北側に取り残された日本人は「難民」と化した。ソ連軍の侵攻を知った数万人もの一般邦人は、西へ南へ向けて避難を開始。なかでも北緯38度線の突破は決死の道程だった。「いよいよ困ったときは、女ででも買収せねばいかん」。避難民団は、ソ連兵などによる性的暴行から逃れるため、「身代わり」の女性を準備した事例が少なくなかったという――。

 そんな窮状を憂い、6万人もの同胞を救出する大胆な計画を立てて祖国に導いた「一般人」がいた。埋もれた英雄を歴史の奥底から掘り起こしたノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)より、一部抜粋・再編集して紹介する。

 朝鮮半島の北部・清津(チョンジン)で敗戦を迎えた神埼貞代は、両親と2人の妹の家族5人で貨物列車と徒歩で北緯38度線を越えた。咸興(ハムン)までなんとか一緒に避難した末の妹は1945年10月、栄養失調のため2歳で命を落としていた。

 

 1946年5月25日。神埼一家は東の空が白まぬうちに咸興駅へ着いた。

「夜が明ける前に家を出たのは、列車の発車時刻も分からなければ、時計もなかったからです。駅前の広場に着くと、たくさんの人が座り込んで列車を待っていました」

 

 やがて、何両にも連なった貨物列車がやってくると、避難民たちは地面に置いていたリュックを背負い、ぞろぞろとプラットホームへと歩いていった。森田芳夫著、『朝鮮終戦の記録』によると、この日の列車には計539人が乗車した。

 

 山間部にさしかかったころ、列車は長い時間停車し、避難民は全員降ろされた。北緯38度線から北に約50キロ離れた江原道(カンウォンド)の福渓(ポッケ)だった。一行は、旧遊郭地域の建物で夜を明かした。

 いくつかの集落を歩き、また列車に乗り、北緯38度線の少し北に位置する鉄原(チョロン)で列車を降りた。神埼らは徒歩で南北の境を流れる川を目指した。夜中を待って、川に辿り着くと川岸には、4~5艘の小さな船が繋がれていた。1艘当たりにおよそ10人が乗って、朝鮮人船頭に身を委ね、対岸に着くとピストン輸送を繰り返した。