93歳が初めて語る「B29」本土初空襲…未明の警報に地響き、崩れる壁「何が何だか」

AI要約

太平洋戦争末期、日本がB29による爆撃を受け焦土と化した。16日で80年経った事件を、空襲を経験した男性が初めて口にする。

13歳の木原康雄さんは、自宅での空襲を経験し、家族と共に身を潜めた。地響きは今も忘れられない。

中国から飛来したB29が目標とした八幡製鉄所を空襲。地元では500ポンド爆弾が370発投下され、300人以上が犠牲となった。

 太平洋戦争末期、日本は全国各地で米爆撃機「B29」による度重なる爆撃を受け、焦土と化した。米軍が日本本土で初めてB29による空襲を行ってから、16日で80年となる。目標は現在の北九州市。空襲を経験した男性は、卒寿を超えた今も、爆弾の地響きを忘れられない。自身の記憶を後世に託すべく、今年、初めて口を開いた。(矢野裕作)

 「何が何だか分からなかった。とにかく家族と身を潜めました」

 13歳の時、八幡市(現在の北九州市八幡東区)で空襲を経験した木原康雄さん(93)(福岡県中間市)は当時をこう振り返る。

 1944年6月16日未明。中国・成都の基地を前日に飛び立った47機のB29が飛来した。攻撃目標は、日本の鉄鋼の生産拠点だった八幡市の八幡製鉄所。約2500キロ離れた基地から航続可能な距離だったことも目標となった要因だった。

 しょうゆ屋を営んでいた自宅で寝ていると、突然、空襲警報が鳴り、父親にたたき起こされた。5人のきょうだいと家の土間に掘られたくぼみに潜った。「どかーん、どかーん」。爆弾による地響きが体に伝わり、壁がボロボロと崩れた。

 初めて経験した空襲。状況をのみ込めないまま朝を迎えた。幸いにも自宅付近に被害はなく、近所の神社に爆弾が落ちたのを見に行くと不発だった。「やっぱり神の国なんだ」。子ども心にそう感じた。

 ただ、隣町の家々には爆弾が落ちて甚大な被害が出ていたことを知った。北九州市平和のまちミュージアムによると、約2時間の空襲で米軍は500ポンド爆弾を約370発投下。夜間の攻撃だったことなどから製鉄所への影響は少なかったものの、門司、小倉、若松、八幡、戸畑の北九州の旧5市すべてが爆撃された。爆弾が直撃した小倉陸軍造兵廠で80人以上が亡くなるなど、300人以上が犠牲となった。

 空襲の調査研究をしている「空襲・戦災を記録する会」(山口県)の工藤洋三事務局長(74)によると、B29が出撃した15日は、米軍が南洋の最重要拠点だったサイパン島に上陸を開始した日だった。「初の本土空襲と重ねて、日本に心理的効果を与えた。本土防衛のやり方の変更を迫られるなど、日本を慌てさせた」と分析する。