音を聞いているのは、耳でなく脳だった!~改善できる危険因子・難聴③

AI要約

補聴器の必要性について、耳鼻咽喉科での診断から適切な補聴器選び、脳へのトレーニングの重要性までを明らかにした。

補聴器は脳が聞く能力を回復させるためのリハビリとして利用され、トレーニングによって脳の「聞き分ける力」を向上させる役割を果たす。

補聴器の使用は即座に聞こえが改善するわけではなく、適応期間を経てしっかりと使い続けることで効果が現れることを理解する必要がある。

 前々回から、難聴と認知症の関係について見ている。

 前回は、補聴器が日本で普及していない現状を見ながら、その理由を慶應大学名誉教授で「オトクリニック東京」院長の小川郁先生に伺いつつ、考えた。

『補聴器が普及しないのはなぜか?~改善できる危険因子・難聴(2)』

 その結果、私たちが補聴器を「使えない」と思ってしまうのは、「補聴器に折々の調整やトレーニングが必要だとは知らないから」というのが大きな理由であるとわかった。しかしどうして補聴器を使うのに、それらは必要なのだろうか?

「詳しくご説明する前に、聞こえにくさを感じたり、聞こえに違和感を持ち始めたりしたら、必ず耳鼻咽喉科を受診してください。人によっては単に耳垢が溜まっているだけかもしれませんし、他の病気が原因という場合もあり、補聴器が必要でない可能性もあります。医師に診てもらったうえで補聴器が必要となったら、どういう補聴器が必要なのかをしっかり検査して調べてもらいましょう」(小川先生、以下同)

 耳鼻咽喉科で診てもらうのはその人の正確な聴力。よって、医師を介在させることで「聴力に合う適切な補聴器を選べるようになる」――というのは誰でもイメージできるだろう。が、折々の調整やトレーニングは、なぜ必要なのだろうか。

「それは、音を聞いているのが耳ではなく脳だからです。聞こえなくなっている人の脳は、聞こえない脳=『難聴の脳』になっています。それを適切な調整と数か月のトレーニングで、『聞こえる脳』にしていきます。『聞こえる脳』になってようやく、補聴器を使って快適に聞こえるようになるのです」

 ……なんと!

 調整や数か月間のトレーニングは、脳のためのものだったのだ!

 聞こえについて理解するために、連載第15回で使用した図を再掲する。

「私たちは、外から集めた音(振動)を耳で電気信号に変えて、脳に伝えています。加齢性難聴は内耳(図参照)の中にある1万6000個ほどの有毛細胞が折れたり抜け落ちたりすることで引き起こされるもので、脳に伝わる電気信号が少なくなるために聞こえが悪い状態になります」……ということだったが、耳は音を伝えているだけで、その後の「聞く」に関しては、脳が行う仕事だったのだ。

 小川先生によれば、難聴患者は聴覚路(上図参照)の音に対する反応が弱くなっているという。そこで、補聴器を使って聞こえを良くしたい場合には、器械(補聴器)で音集めを補強すると同時に、「反応を良くするためのトレーニング」を行う必要があるという。……なるほど!

 しかし、トレーニングとは何をするものなのだろうか。

「補聴器のトレーニングとは、適切に調整された補聴器を使って、脳に音を届け続けていくこと、つまり補聴器をしっかりと使い続けることそのものです。肝となるのが音の調整で、最初から大きな音にすると、脳がびっくりしてしまいます。ですから、聴力測定の結果から導き出された『必要と思われる音量』を最初から100%出すことはしません。どれだけ慣れたかを丁寧に確認しながら、時間をかけてゆっくりと音量を上げていくのです」

 音に慣れるにしたがって、脳の「聞く力」もよみがえり、「雑音からの聞き分け」が次第にできるようになっていくという。つまり、補聴器を使うトレーニングとは、「難聴の脳」に音のシャワーを浴びせ続けることで、脳の「聞き分ける力」を少しずつよみがえらせていくリハビリのようなものなのだ。

 

 この事実を知っていれば、補聴器を買ってすぐに聞こえないからと言って「補聴器は使えない」と判断するのが早計だとわかるだろう。最初から「良く聞こえる」ことを期待するのは、間違いだったのだ。

「例えば突発性難聴で突然片耳が聞こえなった人に補聴器を装用していただいたとして、それまでは約1万6000個の有毛細胞を駆使して聞き取っていた人に、半分の8000個の有毛細胞で快適に聞き取れるかというと、それは無理なことなのです。情報量が少なくなった脳で言葉を聞き取るためにはやはりリハビリが必要です。もちろんリハビリに要する時間は短縮されると思いますが、補聴器で快適に言葉を聞き取るためにリハビリが必要であるという点は同じです」

 つまり、どんな場合であっても、 たとえ難聴になるまでの期間が短かったとしても、 補聴器は「使えばすぐに聞こえが良くなる」ことは決してないのだ。