ルワンダ虐殺から30年。争いがなくならない世界で、私たちが考えなければいけないこと。

AI要約

ルワンダ出身の作家スコラスティック・ムカソンガの人生と彼女の作品についての要約。

彼女が受けた苦難や差別、フランス移住の経緯などの詳細。

ジェノサイドの影響や家族の喪失、記憶の伝承に至るまでの経緯。

ルワンダ虐殺から30年。争いがなくならない世界で、私たちが考えなければいけないこと。

ルワンダ出身でフランス在住の作家スコラスティック・ムカソンガの『ナイルの聖母』はフィクションながら作者の人生が透けて見えるような小説だ。実際舞台となっている「ナイルの聖母学園」は、彼女が在籍していたリセ・ノートルダム・ド・シトーがモデルになっていて、時期もその少し後に設定されている。

ここで少しムカソンガのたどってきた人生を振り返ってみたい。

ムカソンガはデビュー作『イニェンジあるいはゴキブリ Inyenzi ou les Cafards』でそれまでの人生を記している。これは研究者や翻訳者にとってとてもありがたく貴重な資料で、年代を追って家族のこと、生まれ育った環境、受けた被害や差別、そしてフランス移住の経緯などが語られている。

彼女の一家はツチで、ルワンダ独立後はかなり激しい迫害を受け、政府の方針によってもともといた土地から追いやられ、ほかのツチの家族とともにニャマタに移住させられた。そこはルワンダ人にとっては「ルワンダではない」未開ともいえるような僻地で、生活するのにも苦労するような土地柄だった。ムカソンガは成績優秀だったため、首都キガリにあるカトリック系のリセ・ノートルダム・ド・シトーに入学した。しかしそこでもいじめを受け、勉強することだけが救いになった。その後ブタレの社会福祉士養成学校に入学し、つかの間の自由と平穏な日々を味わうことになる。しかしツチにとって不穏な状況はますます強まり、父の勧めで兄のアンドレとともに隣国に逃亡する。そこでやはり父の強い希望である資格を取るためにふたたび社会福祉士養成学校に入りなおし、資格を取得する。UNICEFの仕事などにかかわるうちに夫となるフランス人男性と出会い、結婚後は夫の任地に同行する。1994年、ルワンダでジェノサイドが起き、家族・親族37人を失う。あまりの衝撃になかなかルワンダには戻れずにいたが、事件の10年後にようやくルワンダに帰郷。その時に一族の運命を聞き、このことを決して忘れてはならないと、記憶の伝承を決意して『イニェンジあるいはゴキブリ』を2年後に発表する。

以上が簡単な略歴である。