# 硫黄島の戦い

「部下や仲間がどんどん死ぬので、悲しいという感覚がなくなっていた」…玉砕前の硫黄島で零戦パイロットが敢行した決死の爆撃
2024.08.14

「部下や仲間がどんどん死ぬので、悲しいという感覚がなくなっていた」…玉砕前の硫黄島で零戦パイロットが敢行した決死の爆撃

第1回【ご飯がハエで真っ黒、大量の蚤、異様なガスの臭い…「硫黄島」で零戦パイロットが見た地獄】の続き クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」(2006年)のヒットにより、若い世代にも比較的よく知られている「硫黄島の戦い」。1945年2月16日から1カ月余のあいだ、

ご飯がハエで真っ黒、大量の蚤、異様なガスの臭い…「硫黄島」で零戦パイロットが見た地獄
2024.08.14

ご飯がハエで真っ黒、大量の蚤、異様なガスの臭い…「硫黄島」で零戦パイロットが見た地獄

 太平洋戦争中の1945(昭和20)年2月16日から1カ月余のあいだ、東京から南に約1200キロメートルの位置にある硫黄島では死闘が繰り広げられた。2万余名の守備隊が約6万人の米兵を迎撃し、玉砕した「硫黄島の戦い」だ。2006年にクリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」がヒットし

「一人百殺、これ以外にありません」…米一粒の救援もなかった“玉砕の島”指揮官、最後の壮絶な訓示《栗林忠道中将》
2024.08.09

「一人百殺、これ以外にありません」…米一粒の救援もなかった“玉砕の島”指揮官、最後の壮絶な訓示《栗林忠道中将》

〈「できるだけ長く苦しんで」…腸がとびだしあふれる血の中で破顔、10数時間後に息絶えた“特攻の父”《大西瀧治郎中将》〉 から続く 半藤一利さん『 戦士の遺書 太平洋戦争に散った勇者たちの叫び 』。本書は「語り継ぎたい昭和軍人たちのことば」として、太平洋戦争に散った28人の軍人の

「大分の戦争」展 硫黄島の戦いで戦死した県出身兵士が残した日誌を初めて展示 大分
2024.07.24

「大分の戦争」展 硫黄島の戦いで戦死した県出身兵士が残した日誌を初めて展示 大分

太平洋戦争中の統制下の暮らしなど、県内の戦時中の様子を資料から学ぶ展示会が大分市で開かれています。この「大分の戦争」展は戦時中の市民の生活や戦争の悲惨さについて知ってもらおうと、大分市歴史資料館が7月6日から開催しています。会場には海軍兵学校の制服や陸軍の鉄の帽子と

2万人以上が戦死。なぜ硫黄島を巡る戦いは苛烈を極めたのか?島の陥落を境に、米軍の日本本土爆撃の成果は格段に上がり…
2024.07.17

2万人以上が戦死。なぜ硫黄島を巡る戦いは苛烈を極めたのか?島の陥落を境に、米軍の日本本土爆撃の成果は格段に上がり…

1945年3月26日に「硫黄島の戦い」が終結してから、2024年で79年が経過しました。戦没した日本兵2万2000人のうち1万人の遺骨が見つかっておらず、現在も政府による遺骨収集ボランティアの派遣が続けられています。北海道新聞記者・酒井聡平さんは、硫黄島関係部隊の兵士の孫。過去4回硫黄島に渡り

板橋区とほぼ同じ面積に1万人の遺骨が残る硫黄島。温度が70度に達する手つかずの「地下壕マルイチ」から発見されたのは…
2024.07.16

板橋区とほぼ同じ面積に1万人の遺骨が残る硫黄島。温度が70度に達する手つかずの「地下壕マルイチ」から発見されたのは…

1945年3月26日に「硫黄島の戦い」が終結してから、2024年で79年が経過しました。戦没した日本兵2万2000人のうち1万人の遺骨が見つかっておらず、現在も政府による遺骨収集ボランティアの派遣が続けられています。北海道新聞記者・酒井聡平さんは、硫黄島関係部隊の兵士の孫。過去4回硫黄島に渡り