【小倉競輪(ミッドナイト)FⅡ】「逃げ切ったのは人生で1回だけ」追い込み巧者の中塚記生がラストラン

AI要約

中塚記生(54)が35年の競輪人生に別れを告げる。デビューからビッグレースの常連として活躍し、数々の記念制覇を果たした。

逃げや先行の脚がなかった中塚が、唯一の逃げ切り勝利を06年に達成。16年の熊本地震で休止していた競輪を再開し、新バンクを走りたいという願いもあった。

引退後は家族との時間を大切にし、未練はないが若手選手の活躍を心から願っている。

【小倉競輪(ミッドナイト)FⅡ】「逃げ切ったのは人生で1回だけ」追い込み巧者の中塚記生がラストラン

<23日・小倉競輪・2日目>

 1990年代前半から15年以上もビッグレースの常連として戦った中塚記生(54)=熊本・63期・A3=が24日、35年の競輪人生に別れを告げる。

 デビューは1989年4月。新人リーグで好成績を収め、その期に5人しかいないA級1班格付けという幸先のいいスタートを切ると、2年後の91年には準特別競輪(現在のGⅡ格)のふるさとダービー弥彦でビッグ初参戦、翌年の同大会でビッグ初優出を果たした。「ふるダビは相性が良くて3回も決勝に乗りましたね。そのうち2回は吉岡(稔真)君の番手だったけど、豊田(知之)さん、小橋(正義)さんに競られて7、9着。もう1回は堤洋君の先行一車。井上茂徳さんと佐々木浩三さんに任されたから発進して6着でした」。ビッグ優出は2003年のダービー(8着)も含めて4度。いずれも頂点まで届かなかったが、記念制覇は実に5回。九州の輪史に確かな足跡を残した。

 これだけの実績がある中塚でも「先行して勝つだけの脚がなかった」ため、デビュー当初から逃げることがなく、打ったとしても捲りのみで「目標があれば番手を回っていた。紫原(政文)さんを先行させたこともありますよ」と苦笑い。だが生涯でたった一度だけ逃げ切ったことがある。それは06年11月、伊東記念の2次予選B。「別線が踏み合って流したので、HSでパクッと叩いた。33バンクであと1周だったからそのまま駆けたら1着。人生で1回だけの逃げ切りでしたね」。何とびっくり、追い込み巧者が36歳にして初めてつかんだ先行での白星だった。

 「プロで走っている以上、いずれ来ることだから」と引退することに未練はないが、16年の熊本地震から8年の時を経て再開する地元の「新バンクを走ってみたかった」という気持ちがあったのは事実。しかし、すんでのところで代謝を逃れた昨年後期の疲れが出たのか「今年に入って集団でゴールすることができなくなった。部品を換えたりして、自分なりにいろいろと試したけど駄目でした」。本番のレースで疾走する希望はかなわなくても、試走や練習で真新しいバンクを走ろうと思えば走れた。だが、それはしなかった。「悲しくなるから、昔のイメージのままでいいかなって。震災の時、練習場所にも困っていた後輩たちが思いっきり練習をして、自分の分も成果を出してくれたらうれしいですね」

 今後について、はっきりとは決まっていないが「今まで家庭を顧みずに迷惑を掛けてきたから、まだ小さい子どものためにも土日が休みの仕事に就けたらって思っています」。愛する家族を大切にしつつ、静かに若手の活躍を見守っていく。