京人 パラスポーツの面白さ伝えたい パラアスリートの藤原芽花さん

AI要約

高校時代にはハンドボールで活躍していたが、大学2年の夏に転倒して腰を痛め、その後歩行困難となった。

車いす生活を決意し、パラスポーツに興味を持つ。現在は車いすバスケットボールとパラアイスホッケーで活躍し、2028年のパラリンピック出場を目指す。

障害を乗り越えて、パラスポーツの魅力に気付き、積極的に活動。「障害の有無は関係ない。パラスポーツを楽しむ姿勢を伝えたい」と語る。

京人 パラスポーツの面白さ伝えたい パラアスリートの藤原芽花さん

部活動での転倒を機に、歩行困難となって約3年。大学4年の現在、車いすバスケットボールチームに所属し、4年後のパラリンピック出場を狙う。「健常者も障害者も関係ない。スポーツの選択肢としてパラスポーツを根付かせたい」。選手として夢舞台への出場を目指すとともに、車いす生活をきっかけに気付いたパラスポーツの魅力を伝える活動にも力を入れる。

「意識を失うくらいの痛み。これはもう無理だと思った」。大学2年の夏、所属していたハンドボール部の練習中に転倒して腰を痛め、手術を受けた。術後の回復は遅かったが、高校時代にもヘルニアの手術を受けた際、歩けるまでに時間がかかったこともあったため、「いずれは歩けるようになる」と思っていた。

しかし、そんな考えとは裏腹に、左足に力が入らず立ち上がれなくなり、リハビリを専門とする病院に転院。懸命にリハビリを続けたものの、良くなるどころか、悪化する一方だった。その後、自らの意思とは無関係に体が動く、不随意運動が発生し、車いすでの生活を余儀なくされた。原因は今でも分かっていない。

小、中学校時代、サッカーで地域の選抜に選ばれ、高校ではハンドボールの強豪・洛北高校でインターハイに出場。スポーツとともに人生を歩んできた。そんな中で突きつけられた残酷な現実。だが、そこには絶望も悲しみもなかった。

「せっかく車いすで生活するなら、パラスポーツをやってみたい」。好奇心旺盛だという性格から、退院後、早速交流サイト(SNS)でパラスポーツの体験会を見つけ、足を運んでみた。初めて乗る競技用の車いすだったが、両輪を全力で漕ぎ進む感覚はかつて自らがピッチを駆け回る様子と重なった。「障害者のスポーツというと走れない人がやるイメージだったが、今までやってきたことと同じことができるんだ」。驚きと喜びがこみ上げた。

それから、車いすを使ったハンドボールやソフトボールなどさまざまなパラスポーツを体験。現在は車いすバスケットボールとパラアイスホッケーの選手としてプレーしている。車いすバスケットボールでは、大阪を拠点とする強豪チームに所属し、国内トップ選手とともにハードな練習を積んでいる。目標は日本代表のメンバーとして2028年のロサンゼルスパラリンピックに出場することだ。

突然余儀なくされた車いす生活だったが、悲観せず前を向いたからこそ、パラスポーツの魅力に気付くことができた。障害を抱えたことで、人生の選択肢が増えたとも思う。次はその選択肢を誰かに与えたいと、選手として活動する傍ら、大学では同じ学生向けに車いすバスケットボールの体験会を開き、パラスポーツの魅力を広める。障害の有無は関係ない。障害があるからと下を向くこともない。伝えたいのは「あきらめてパラスポーツをやっているのでなく、面白いからやっている」のだと。(木下倫太朗)

ふじわら・めいか 平成13年、京都府宇治市生まれ、京都府立洛北高校時代はハンドボール部に所属し、3年時にはインターハイで8強入り。佛教大に進学するも部活動の練習中に転倒し、車いす生活となった。退院後には車いすバスケットボールをはじめ、さまざまなパラスポーツに取り組み、今年3月にはパラスポーツで活躍した学生を表彰する「パラアスリート・オブ・ザ・イヤー」の最優秀賞を受賞した。