高校生で日本代表→社会人でスランプ…陸上「消えた天才」絹川愛(34歳)が“男装コスプレイヤー”になったワケ「いったん違う人間になりたかった」

AI要約

絹川愛さんは、仙台育英高時代に大阪世界陸上1万mの代表に選ばれ、「平成生まれ初の日本代表」となり、その後現役復帰を果たした。競技生活での葛藤や苦悩、そして引退後の選手としての道を痛感した絹川愛の軌跡が明かされている。

絹川は、2011年にハーフマラソンで好走するも、ケガの影響でロンドンオリンピックを逃し、徐々に活躍が目立たなくなっていった。オリンピックに出場できなかった経験や落選に対する未練が、彼女の心に残り、引退に至る経緯が紐解かれている。

絹川は23歳で引退し、実業団を辞めた後、再び競技に復帰を果たした。苦難を乗り越えて再び舞台に立つ絹川愛の姿に注目が集まっている。

高校生で日本代表→社会人でスランプ…陸上「消えた天才」絹川愛(34歳)が“男装コスプレイヤー”になったワケ「いったん違う人間になりたかった」

 仙台育英高時代に大阪世界陸上1万mの代表に選ばれ、「平成生まれ初の日本代表」となった絹川愛さん。その後は紆余曲折を経て2017年に現役引退、2018年には人気テレビ番組『消えた天才』にも出演した。そんな絹川さんが再び注目を集めたのは、今年4月に現役復帰を発表した際だった。若くしてその才能を開花させた「天才女子高生ランナー」は、その後のスランプからいかに立ち上がったのか。また、競技生活を離れた際に「心の支え」となったものとは? 〈全3回の2回目/つづきを読む〉

 絹川はまだまだ伸びる。この頃、誰もがそう信じていた。

 社会人4年目となった2011年には、初めてハーフマラソンに挑戦し、札幌、上海と国際大会で2戦続けて好走を見せた。高校時代に出場した大阪大会に続いて、2度目の世界陸上となった8月の韓国・大邱大会の1万mこそ脱水症状に見舞われ最下位と辛酸をなめたが、トラックだけではなくより長い距離への適性も示し、翌年のロンドンオリンピックにはマラソンで挑戦するという構想もあった。 

 ただ、ケガの影響もあり、結局ロンドンの選考会はマラソンではなく1万mに絞って出場。しかし、北京に続いてまたも出場は叶わなかった。

 これ以降は徐々にレースでの活躍が目立たなくなっていく。

 陸上関係者以外に印象が薄いのは、もしかすると彼女がオリンピックに出ていないからかもしれない。

 オリンピックへの思いを聞くと、こんな本音がこぼれた。

「そりゃあ、行きたかったですよ。世間はやっぱりオリンピック、オリンピックって言うから、それに出なきゃダメなのかなって。チャンスはあったんですけどね」

 ことさらに強調するわけではないが、ロンドンの選考については割り切れない思いを持っていたようだ。絹川は当時、五輪出場の条件である参加標準のA記録を切っていた。選考の対象となった日本選手権でも、じつは3位に滑り込んでいる。3位以内に入れば可能性はあると聞かされていたが、結果は落選だった。不明瞭な選考基準に泣かされたケースの1つと言えるだろう。

「あの時は、なんでって思いましたよ。すごく悲しくて、大人たちに裏切られたって気持ちもありました」

 ただ今なら、その判断に至った理由もわかる気がするという。

「やっぱりその前年度に、大邱の世界選手権で最下位になったのが響いたのかな。このコはまた大事なレースで脱水症状になるんじゃないか。一か八かの人は連れて行けないよねって。今の私ならそういう判断が下ったことに理解はできます」

 だが、その時は未練が残った。

 なぜ行けなかったのか。日本陸連や指導者から明確な落選理由を聞かされなかったからだ。その後、記録は伸び悩み、引退へとつながっていくわけだが、絹川はその時の状況を冷静に振り返る。

「ロンドン落選の後、またアキレス腱を手術して、結局はこのケガで引退するんですけど、気持ちのどこかでこの落選を引きずっていたような気がします。まだ繊細な23歳とかですからね。すべての条件をクリアしてもダメなときがあるんだなって絶望したんだと思う。きっと乗り越えられていたはずのリハビリだったのに、もう無理だって諦めてしまった。周りの人はマラソンで次を目指そうと声をかけてくれましたけど、自分がその気持ちに蓋をしてしまったんです」

 アキレス腱のケガが長引くと、やがて目標を見失い、恩師からタッグ解消を告げられたことなどもあって、絹川はついに実業団を辞める決心をする。ミズノを退社したのは、2015年3月のことだった。