「人気すぎて舞台袖にも客が溢れていた…」吉本新喜劇「黄金時代」を築いた“岡八朗”と“花紀京”は何がスゴかったのか

AI要約

吉本新喜劇が65周年を迎え、全国ツアーも開催。竹本浩三から始まった新喜劇の鉄則や芸風、座長の影響など、歴史を振り返る。

花紀京や岡八朗などのスターが吉本の黄金期を築き、新喜劇の礎を作った。花紀京は見るものを笑いに誘うタイプでギャグよりも芝居に重点を置いていた。

岡八朗は数々のギャグでギャグ王の名を欲しいままにし、新喜劇を盛り上げた。その活躍が新喜劇の黄金期を支えた。

「人気すぎて舞台袖にも客が溢れていた…」吉本新喜劇「黄金時代」を築いた“岡八朗”と“花紀京”は何がスゴかったのか

 関西人にとって「お笑いの教科書」とも言われる吉本新喜劇が、65周年を迎えた。7月からは全国を回るツアーも開催される。これまで吉本新喜劇はどんな道を歩んできたのか。吉本新喜劇GMである間寛平さん、ベテラン座員で新喜劇の生き字引的存在であるやなぎ浩二さんに話を聞いた。

 やなぎ:はじめの頃の新喜劇は、竹本浩三いう人が一人で本を書いてたんです。竹本さんは座員にこう言うたんです。「おまえら、どうせウケへんのやから、なんか言うたらどたーんとコケ。とりあえず、コケ。そしたらお客さんはビックリするか、笑うかするわ」。これが吉本の鉄則になった。

 寛平:竹本先生は、すごかった。いっぱい書いて忙しかったから、手抜きもするやん。その時は、おもろなくてね(笑)。「爆笑寄席」という番組の本も竹本先生やった。西川きよし兄さんがね、「寛平ちゃん、おもしろない本でもな、おもしろするのが芸人や」って言いはってね。それがすごい勉強になったんですよ。

 吉本新喜劇の歴史を語る上で外せないのは、花紀京、岡八朗が座長だった時代だろう。

 花紀京はニッカポッカと赤い鼻とほっぺたがトレードマーク。飄々としたとぼけた雰囲気で、見るものを笑いの渦へと誘った。今回、取材のために当時の新喜劇の映像を見たのだが、花紀京の新喜劇に圧倒された。新喜劇はギャグのイメージが強かったが、花紀京にはギャグがあまりなかった。芝居だけで笑いを産み出していたのだ。

 漫才でいう、「間の笑い」だ。それを新喜劇という大人数の舞台でやってのけるのが信じられなかった。過去に戻って劇場で見たかったと心の底から思わされた。

 一方、岡八朗は、「くっさー」「えげつなー」「隙があったら、あっかってこんかい」など数々のギャグを産み出し、ギャグ王の名を欲しいままにした。ちなみに僕は、「こう見えても昔、空手やってたんや。通信教育やけどな」というギャグが好きだった。

 二人は新喜劇が生んだスターで、彼らが最初の吉本の黄金期を作り上げた。新喜劇の礎は、花紀京・岡八朗が築いたと言っても過言ではない。