売野雅勇、中森明菜の『少女A』のヒットまで「50曲くらいは書いた」作詞家“駆け出し時代”の裏側

AI要約

売野雅勇さんは、若い頃にエネルギッシュなキャンパスライフを楽しんだ後、広告代理店でコピーライターとして働くが、音楽ディレクターから作詞家としての才能を見出される。

作詞家デビュー後も怖さを感じずに楽しみながら新しい世界に飛び込んだが、他の作詞家と比較し、ヒット曲を長く作り続けられるか不安を抱いていた。

そんな売野雅勇さんは、まもなく「星くずのダンス・ホール」や「東京チーク・ガール」といった名曲を手がけ、作詞家としてのキャリアを築いていくことになる。

売野雅勇、中森明菜の『少女A』のヒットまで「50曲くらいは書いた」作詞家“駆け出し時代”の裏側

 中森明菜さんの「少女A」で注目を集め、以後、チェッカーズやラッツ&スターのヒット曲の数々、郷ひろみさんの「2億4千万の瞳-エキゾチック・ジャパン-」など、歴史に残る名曲を多数手がけている作詞家・売野雅勇さん。広告代理店でコピーライターとして働いていた青年が、なぜ、稀代の作詞家になれたのか。売野雅勇さんの「THE CHANGE」に迫る。【第2回/全5回】

 生意気なガキ大将だった売野少年は、ある冬の日、天啓を受けたかのように恥を知り、思慮深い青年へと生まれ変わった。大学では、思いがけない出会いから、後の人生を決定づけていくことになる。

「大学生になった当初は、“遊ぶぞ!”って決めていましたね。実際、級友の男女数名で毎日のようにお洒落なカフェに行ったり東京巡りをしたり、気ままなキャンパスライフを謳歌していましたよ。でも、そんな日々にはすぐに飽きてしまいました。

 5月の連休後、エネルギーをきちんと燃焼させるべくアメリカンフットボール部に入部しました。僕は体当たりするより走って逃げる方が得意だから(笑)、もっぱらランニングバックなどのオフェンスでした。毎日、練習に明け暮れていたあるとき、1つ上の先輩から“売野にぴったりの職業がある、お前はコピーライターになれ”って突然言われたんですね。とても優秀で優しい尊敬できる先輩でしたから、その言葉がまるでサブリミナル効果みたいに頭に刷り込まれてしまっていた気がします。

 就職活動では、音楽ディレクターになろうと考えていましたし、内定をもらったも同然のレコード会社もあったのですが、先輩の言葉に導かれてとういうか、預言でも聞いたかのように、結局は広告会社に入社しコピーライターの道に進むことになったのです」

 広告代理店をいくつか経て、音楽レーベル「エピック・ソニー」の広告コピーを担当することになった。これが、作詞家・売野雅勇の誕生へとつながった。

「僕が書いた広告のコピーを見たエピック・ソニーの音楽ディレクターが、わざわざ電話をかけてきてくれたんです。“詞を書いてみませんか”と。正直、驚きました。その数日前に、僕はシャネルズ(後のラッツ&スター)のファースト・アルバムの発売告知の新聞広告のコピーを書くのですが、それを気に入ってくれたようでした。

 オフィシャルの僕のデビュー作は、『星くずのダンス・ホール』という楽曲です(初めて作詞したのは河合夕子さんの『東京チーク・ガール』ですが、シャネルズの発売が先になりました)。いきなり作詞家でデビューすることに、全く怖さは感じませんでした。それまで何年もの間、コピーライターとして言葉の使い方の訓練を積んできましたからね。

 また、『東京チーク・ガール』を書いたのが29歳。人生を考える年齢でもありました。作詞家になって新鮮な世界が広がり楽しい日々が始まったけど、10年20年と歌詞を書き続けてゆく運と才能があるのだろうか?とJASRACの会員名簿を眺めながら、一握りの有名な作家だけがヒット曲を作り続けている状況に愕然とした覚えがあります」