《あの80年代アイドルの今》桑田靖子語る「明菜と2人きりの楽屋」と「83年アイドルの結束が固い」悲しすぎる理由

AI要約

桑田靖子は83年にデビューし、82年組の先輩たちと交流がありました。特に中森明菜さんからは可愛がってもらい、ファンに自分の楽曲を勧めてもらったというエピソードがあります。

また、チェッカーズや松田聖子などとも仲良く、活躍の場を広げていました。また、バラエティ番組でも活躍し、たけしとの共演では緊張しつつも、楽しいエピソードもあったようです。

デビュー当時の思い出や楽屋裏のエピソードなど、桑田靖子のキャリアについて振り返る記事です。

《あの80年代アイドルの今》桑田靖子語る「明菜と2人きりの楽屋」と「83年アイドルの結束が固い」悲しすぎる理由

「1年先輩の“花の82年デビュー組”がすごい人気でしたので、アイドルの水泳大会でもメインで歌うのは82年組で、私たち83年組が歌う姿は、競技の映像の隅っこのほうで小さく“ワイプ”扱いでしたね(笑)。不作の83年組といわれています。そのうち84年デビューでチェッカーズや荻野目洋子ちゃん、吉川晃司さんと個性的な人たちが出てきてしまって、その間に挟まれちゃったというところはありましたね。82年組の中森明菜さんとは、よく楽屋がご一緒になることがあって、2人きりの楽屋もありました。すごく可愛がっていただきました!」

そう話すのは83年『脱・プラトニック』で15歳でサンミュージックからデビューした桑田靖子(56)。中学2年の夏休みに福岡から上京し、当時の事務所社長の自宅で下宿していた。

「私のデビュー曲『脱・プラトニック』は、明菜さんの『少女A』(2枚目のシングル)と同じ、作詞が売野雅勇先生で、作曲が芹澤廣明先生の楽曲でした。そのため、明菜さんご自身がファンの方に『桑田靖子ちゃんって子がデビューしたんだけど、すごく歌がいいから聴いてあげてね!』と言ってくださったみたいなんです。とても嬉しかったですね。

だから、楽屋とかでもすごく良くしてくださって『お菓子食べる?』とか『差し入れ、食べる?』とか気遣ってくださって、スタジオに行くときは『じゃ頑張ってね』という風に言っていただいて。もうすでに売れてらしたので、結構私は楽屋2人なんていうのはドキドキでしたけど、とてもお優しくて、嬉しかったのを覚えてます。

ちょうど同じ事務所の先輩が松田聖子さんだったので、聖子さんとも楽屋ご一緒させていただきました。だから、お2人は全くタイプが違っていましたが、共通してるのは、オリジナリティがあって、自分をセルフプロデュースされる力がすごいんです」

同郷のチェッカーズとも仲が良かったという。

「舞台袖とか、待合室、前室ではチェッカーズの皆さんにもすごい可愛がっていただきました。年が皆さんの方が上でしたけど、藤井フミヤくんがゴジラをすごい好きでコレクションをしていて、ゴジラの形のガラスで出来たワインボトルをいただいたこともあります(笑)」

『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)などバラエティ番組でも活躍。

「新しく番組をビートたけしさんとテリー伊藤さんがおやりになるっていうことで、若い女性のレギュラー枠を探していらっしゃるときに、他の番組に出演していた私をテリーさんが見に来てくださって。『じゃあ桑田さんでやりましょう!』と言っていただいたみたいなんです。何をしていいかっていうのは本当に分からなくて、毎週プロデューサーさんに『どうしたらいいでしょう』と相談してました」

たけしとの会話は終始、緊張していたという。

「そんなには喋れなかったですね。ただ、私に弟がいるんですけど、名前がたけしで。学生時代に甲子園に出ていたのを、たけしさんがお聞きになられてたみたいで、『弟くん、野球やってんだってね』とか、『弟くん甲子園出たんだってね』と話しかけてくださった記憶があります」