「親子の縁を切ってでも行く」浅香唯 三代目「スケバン刑事」の大役に挑んだ10代の青春「宮崎訛りがほめられて」

AI要約

浅香唯さんは獣医に憧れていたが、少女コミックのオーディションでデビューし、15歳で単身上京する決意をする。

デビュー当時のキャッチフレーズは「フェニックスから来た少女」であり、宮崎県のシンボルであるフェニックスを連想させた。

親の反対を押し切って上京した浅香唯さんは、芸能界に進むことに決意し、意地で挑んだ姿勢が窺える。

「親子の縁を切ってでも行く」浅香唯 三代目「スケバン刑事」の大役に挑んだ10代の青春「宮崎訛りがほめられて」

「許さんかいね!」あの名セリフは、浅香唯さんが宮崎県出身だったことから生まれたものでした。獣医に憧れていた少女はアイドルと女優の道を選びます。過激なアクションに睡眠を削ってまで青春を費やした『スケバン刑事』秘話です。(全5回中の1回)

■「親子の縁を切ってでも行く」飛行機に乗って上京

── デビューのきっかけは、少女コミック主催のオーディションだったそうですね。

浅香さん:中学3年生のときに、少女コミックの連載漫画『シューティングスター』のヒロイン「浅香唯」を探すという企画で、“浅香唯賞”をいただき、デビューをしました。

とはいえ、もともと芸能界に興味があったわけではなく、じつは獣医さんになりたくて。中学受験を経て、地元の宮崎大学教育学部の附属中学校に通っていたのですが、「浅香唯賞」の賞品だった真っ赤なステレオがどうしても欲しくて(笑)、思い出づくりにと、軽い気持ちで受けたら合格したんです。当初は芸能界に進むつもりはなかったのですが、事務所の方々があまりにも熱心に誘ってくださったので、“それならちょっとやってみようかな”と。

── 中学校卒業と同時に、15歳で単身上京。親御さんには反対されませんでしたか?

浅香さん:もう大反対でしたよ。私自身、そこまで芸能界に入りたいと思っていたわけではなかったのですが、両親があまりに反対するものだから、意地になってしまって。「親子の縁を切ってでも行く!」と告げ、飛行機に乗って上京しました。

── 昭和のアイドルのキャッチフレーズには、印象的なものが多いですが、85年にデビューした浅香さんのキャッチコピーも、「フェニックスから来た少女」と、なかなかインパクトがありました。当時は、謎めいたフレーズに困惑した記憶があります。

浅香さん:「フェニックス」は、私の出身地である宮崎県で指定されている“県の木”なんですよ。宮崎のシンボル的な存在ですね。