凌辱魔人と囚われの女性ジャーナリストの対決は…55年前のイタリア映画が今でも古びてみえないワケ<日本初公開>
ピエロ・スキヴァザッパ監督の『男女残酷物語/サソリ決戦』は、フェミニズムとマゾヒズムに対する回答として描かれる。
映画は、女性の監禁と調教を通じて、男女の関係や欲望を探求する物語となる。
作品は、時代に影響を受けたアイデアやアート作品からインスピレーションを得て展開される。
半世紀を経て、はじめて姿をあらわした、ピエロ・スキヴァザッパ監督の『男女残酷物語/サソリ決戦』は、当時のフェミニズムに対する男の側のスーパー・マゾヒズムな回答である、面白れぇ。
女性が失神させられ気がつけば監禁、とくればふつうにその先に待つのは、隷属させるためのさまざまな調教(特にメソッドと化した性的な)といっていいが、このイタリア映画もそこは裏切らない。
囚われた女(ダグマー・ラッサンダー)の硬質な裸体、ほどよい小ぶりな乳房があなたのゲスな期待を裏切らない。部屋に組まれた格子とやわらかな女体の曲線の対比。なぜ、わたしなの? だれにも言わないからおうちに帰して、どうか殺さないで、女は泣く。
しかし、映画はゆっくりと原題Femina Ridens(英語タイトルThe Laughing Woman)の意味を明かしていく。
最初、アンチ・フェミニズム、女性憎悪の思想を声高に繰り返し語り、全身筋肉といっていい美体を誇示していた男(フイリップ・ルロワ)にとって、女の調教がじつは相互的以上にせつない試みとわかってくる。
美女惨殺写真とかの脅迫的素材は、興奮のための趣味的フェイクであった。頃合いを見計らって、焦らしながら女が、〈ある絶頂〉を逆提案する。
この映画が古びてみえない理由に、2人だけの調教空間が、デザインのモダーンによって、ジム施設のように無駄がないことがあげられる。意識が肉体にむかう。
驚いたのは性具として、ダッチワイフならぬダッチハズバンド(?)が登場してきたことだ。
男は自分そっくりの等身大ドールとのセックスを女に命じる。オナニーの強制だが、めずらしい。この模擬性行為の模擬窃視の意味するところは…。
部屋のなかで小物入れ(?)かなにか用途不明の男性性器状のモノが一点あるが、小さく白く、まったく汚れがない、これが意味するところは…。
映画のアイデアは露骨に時代を反映して、まず、1965年に公開されたウイリアム・ワイラー『コレクター』(原作ジョン・ファウルズ)の過激フェミニズムによる読み換えの試み。蝶コレクションが女にとって、クズ男どもの××累々に転じるあたりが快哉のきわみ。
もうひとつ、1966年の個展開催の折、ストックホルム近代美術館の庭に設置されて、大ひんしゅくをかった、フランスの女性美術家、ニキ・ド・サンファルの巨大でカラフルな設置型作品〈ホン(スウェーデン語で“彼女”の意)〉が重要なアイデア源。
女性器を出入り口とし、内部(胎内)にいくつかのイベントルームを配したアート建造物。性解放の先進国スウェーデン開催ならではの万人にひらかれた膣という発想。
その投げやりなまでにだれをも受け入れる巨大女性器は、1世紀前のクールベの〈世界の起源〉(1866年)の閉じた膣をこえて、レオナルド・ダ・ヴィンチがデッサンした人体解剖図の女性器、穴を間違えたかのような無粋な空洞にまでさかのぼる。