「1兆4000億円の負債」でも社内は明るかった…Jリーグ元チェアマンが語るリクルート復活の理由

AI要約

村井満氏はJリーグチェアマンに就任し、再建に成功した経歴を持つ。リクルート出身である彼のキャリアや失敗、Jリーグ改革への取り組みなどが紹介されている。

リクルート時代の30年間を振り返ると、チェアマン時代の決断につながるエピソードが明らかになる。彼の地味なスタートや失敗、リクルートでの経験がJリーグ改革に影響を与えたことが示唆されている。

リクルート入社当時の状況や同期入社の印象、採用方針についても触れられており、当時のリクルートの社風や人材の特徴が伝えられている。

2014年にJリーグチェアマンに就任した村井満氏は、当時経営危機に直面していたJリーグの再建に辣腕を振るった。リクルート出身の村井氏がサッカーの世界に転身したのはなぜだったのか。ノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏の書籍『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)より紹介する――。

■「地味でぱっとしない」社会人としてのスタート

 「マネジメントの才能は後天的」――。

 これはリクルートの創業者である、江副浩正(えぞえひろまさ)が残した言葉である。

 芸術や音楽やスポーツでの天才少年・少女は存在するが、ビジネスの世界に天賦(てんぷ)の才能は存在しない、というのが江副の考え。少なくとも、村井満のキャリアを振り返ると、その指摘は驚くほどに符合する。

 「凄腕のビジネスパーソン」として、Jリーグチェアマンに迎えられた村井であったが、社会人としてのスタートは実に地味でぱっとしないものであった。

 経営者となってからも、屈辱的な失敗を何度か経験している。

 リクルートにおける村井のキャリアは、1983年から2013年までの30年間。その間のトピックスをたどっていくと、チェアマン時代に行った決断の「出典元」となるようなエピソードが頻出する。

 「異端のチェアマン」によるJリーグ改革を考察する上で、30年にわたるリクルート時代の検証は不可欠。この時代について、村井自身に振り返ってもらった。

■東大をはじめ有名大学卒がごろごろいた

 日本リクルートセンターに入社したのは1983年、私が23歳の時でした。リクルートに社名変更するのが1984年ですから、その前の年になります。

 同期入社は150人くらい。今でこそ誰もが知る大企業ですが、当時のリクルートは、それほど有名ではありませんでした。ですから大卒の新入社員は、そんなにいないだろうと思っていたんです。

 ところが実際に入社してみると、東大をはじめ有名大学卒がごろごろいて、しかも個性派揃い。リーダーシップが強いやつもいれば、宴会で引っ張りだこになる芸達者なやつもいて、こんなに癖の強いのをよく集めてきたなと思いました。

 新入社員の半数くらいが女性だったことにも、リクルートの採用方針が色濃く表れていたと思います。