芝公園内の開拓使仮学校跡の碑の前で、日本の先住民族アイヌを想い、語り合う

AI要約

明治政府がアイヌ政策を展開し、開拓使仮学校を設置した歴史について記述されています。

アイヌ民族が学校に連れてこられ、困難な環境で教育を受ける姿が描かれています。

教育内容や環境がアイヌ文化や生活スタイルを破壊するものであり、その影響が物語られています。

芝公園内の開拓使仮学校跡の碑の前で、日本の先住民族アイヌを想い、語り合う

■明治政府のアイヌ政策と開拓使仮学校

東京・港区の芝公園の一角に「開拓使仮学校跡」という石碑があります。

明治政府の開拓使は、先住民族のアイヌが暮らす北海道など北方の開拓のための官庁でした。

開拓の指導者養成のための開拓使仮学校は明治5年、1872年に設置されました。

のちの札幌農学校、現在の北海道大学につながるわけですが、仮学校には付属の「北海道土人教育所」がありました。しかし、そのことは石碑の文章に書かれていません。

8月25日、石碑の前で「アイヌ民族の権利回復を求める会」主催のフィールドワークが行われ、メンバーの加藤登さんがこの場所について説明しました。

加藤登さん(アイヌ民族の権利回復を求める会)

「1872年、開拓使仮学校附属土人教育所と第三官園に38名のアイヌ民族が連れてこられた。そのうち5人が亡くなって、多くの人が2年ぐらいで『もう私は国に帰りたい』というようにして、この学校って2年間しか続かなかったんですね」 

連れてこられたのは、10代から30代の男女で、年少者は日本語の読み書きにそろばん、裁縫、年長者は渋谷にあった第三官園(農園)で、西洋式の農業を学ばされたようです。

北海道土人研究所について調べた、鹿児島純心大学教授の廣瀬健一郎さんは、「アイヌを明治政府の統治に組み込むため、アイヌの世界観、文化、生活のスタイルを破壊するような教育内容で、場当たり的な政策だった」としています。

文明開化をうたっていたこの時代、行儀作法から和服・洋服、慣れない食事を強制され、体調を崩し、亡くなる人が相次いだことについて、廣瀬さんは「親、兄弟、妻に会えないで、ここで亡くなった方たちなんですよね。親、兄弟、子供にも会えないような生活環境。それが与える精神的なプレッシャーというところも一緒に考えないと、ただ病気の死因はこれですよということでは、ちょっと済まない問題があるだろうということを想像しなきゃいけないなというふうに思います」とこの日、補足していました。