「歯を食いしばってアメ公が果てるのを待つ」16歳で朝霞の「パンパン」となり86歳で壮絶な半生を語った女の矜持

AI要約

朝霞市でアメリカ軍兵士たちに体を売って生活していた「パンパン」と呼ばれた女性たちの歴史について紹介。田中利夫さんの取材を通じて、その当時の様子や地元の反応を探る。

元娼婦たちが過去を語ることを避け、地元でも黙秘される「負の歴史」についても触れられる。田中利夫さんの活動による歴史の伝承を巡る葛藤が描かれる。

朝霞市の「パンパン」とされた女性たちの真実や過去の経験に対する人々の考え方の複雑さを考察。過去の暗い歴史に向き合う必要性と尊重すべき事情について述べられる。

朝ドラ「ブギウギ」にも登場した「パンパン」と呼ばれた女性たち。敗戦後の日本に駐屯したアメリカ軍の兵士たちに体を売って生活していた女性をそう呼ぶ。その歴史について取材した牧野宏美さんは「キャンプ・ドレイクのあった朝霞市は基地の街だった。街娼が集まり2000人いたという記録もある。朝鮮戦争の後は少なくなったが、1975年ごろまで娼婦は存在していたという証言がある」という――。

 ※本稿は、牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)の一部を再編集したものです。

■朝霞基地の周辺にいた「パンパン」にかわいがられた男性の話

 朝霞の米軍基地のそばで育った田中利夫さん(取材当時80歳)は、一見華やかに見えるオンリー(米兵に囲われる愛人)も含め、「パンパン」は蔑視の対象だったと感じてきた。家が女性たちの利用する貸席(料金をとって座敷を貸す商売)を営んでいた田中さん自身も、友人の親から「淫売屋」と言われたことがある。進学や就職がままならない娘が「オンリー」となり、家族の生活を支えていた家もあったという。

 「そういう家は暮らしぶりが急によくなるので、すぐわかります。近所の人たちは『あの家は娘にパンパンをやらせている』と陰口をたたいていました」。なかには米兵と結婚し、アメリカに渡った人もいたが、朝霞から出た後、消息がわからない女性も多くいる。

 田中さんは市民らでつくる歴史研究会に勧められ、2014年頃から子ども時代の記憶を紙芝居にして、地元の人々に伝えるようになった。描いた絵は1000枚に及び、そこには赤や水玉模様の派手なワンピース姿の娼婦が頻繁に登場し、黒人兵のオンリーとなって豊かな生活をしていたベリーという女性などのエピソードを詳しく紹介している。「朝霞が娼婦によって潤っていたのは事実ですし、僕にとってはみんな優しくいいお姉さんでした。また会いたいです。だからお姉さんたちの名誉回復、というか、どんな人たちだったかをきちんと伝えたいと思っています」

 しかし、田中さんの活動を歓迎しない人もいるという。地元の人間らしい男性から電話がかかってきて、「なんでそんなことをするのか。だまっておけ」とすごまれたことがある。「負の歴史」をあえて伝える必要はない、ということなのだろう。

■朝霞の「負の歴史」とされ、元娼婦たちも口をつぐむ

 田中さんは目を伏せたまま、静かに語った。「地元はいまもこんな状況で、大半の人が知っていても黙っています。公に語っているのは、私ぐらいでしょうね。元娼婦の女性たちはなおさら話さないでしょう」

 数年前、田中さんが紙芝居の絵の展示をした際、それを聞きつけたのか、貸席を使っていた元娼婦の女性から電話がかかってきた。面倒見のよかった田中さんの母を慕っていたといい、「線香を上げたい」と家を訪ねてきたという。しかし女性はその後の人生については詳しくは語らず、「住所や連絡先は聞かないで。家族もいるので、探さないでほしい」と言って立ち去った。田中さんは、朝霞の近隣にはこうした女性がまだ住んでいると考えている。もちろん、自身の過去を語らない女性たちを責めることは決してできない。彼女たちは「語らない」のではなく、さまざまな事情から「語ることができない」のだろう。同様に、「だまっておけ」と言う人々にも、そう言わざるをえない事情があるのかもしれない。取材を通じて、私はそう考えるようになった。