「捨てたら不幸になるかも…」 気のせいだと分かっていてもやめられない“思い込み”にあらがう方法は?(古市憲寿)

AI要約

信心深さが物を捨てる時に影響を与えることについて考察。

開運グッズや宗教の武力についての歴史的背景に触れる。

思い込みや迷信に対抗する方法について考える。

「捨てたら不幸になるかも…」 気のせいだと分かっていてもやめられない“思い込み”にあらがう方法は?(古市憲寿)

 妙に信心深いところがある。たとえば物を捨てる時、買った時からのことを思い出して、余計なことを考えてしまう。「そういえばこの服を買ってから運気がよかった気がする。捨てたら不幸になるのではないか」といった具合だ。

 意味のない逡巡だということは分かっている。世の中には運気が上がることを謳う壺やら、諸願成就を約束するアクセサリーやらが溢れている。だが開運や諸願成就グッズの効果が科学的に証明されたことはないはずだ。

 もし本当に効果があるなら、今すぐウクライナやガザに開運グッズを置いて、戦争をやめてほしいものである。そもそも開運という概念自体が曖昧だ。願いがかなうという意味でいえば、しばしば人間の願いはぶつかり合う。まさに戦争がそうだが、ウクライナとロシアに同じ開運グッズを置いた場合、それはどちらの願いをかなえるのか。ハマスに誘拐された人と、イスラエル軍に爆撃された人は、どちらが優先して救われるのか。

 今でこそ日本の神社仏閣は平和で静謐なイメージがある。だが歴史的には兵力を保有した武装組織だった寺社も少なくない。武器を製造し、必要とあらば他の寺社を武力攻撃する。中世においてこうした寺社勢力は強大な権力を有した。

 物騒な話に聞こえるが、宗教が武力を持つのは理にかなっている。ぶつかり合う願いを、強引にでも達成するためには、時に武力に訴えることも必要だからだ。同じように世界の宗教史を振り返れば、そこには血みどろの戦いがあった。

 平和的に見える開運グッズも、実は誰かをおとしめることになるかもしれない。宇多田ヒカルさんに「誰かの願いが叶うころ」という曲がある。誰かの願いがかなうことで、別の誰かを不幸にさせてしまうことがある。恋愛における三角関係など分かりやすい。

 だが現代の開運グッズは、中世の寺社勢力のように武力に訴えたりはしない。客観的な効能としては、せいぜい予言の自己成就くらいだろうか。思い込みは人間の行動を変える。開運グッズによって自信を持ち、仕事や恋愛がうまくいくケースはなくはない。しょせん、運気とはその程度のものだ。

 と、そんなことは分かっている。問題は思い込みも馬鹿にならないこと。迷信や気のせいだと分かっていても、あらがうのは難しい。例えばちゅうちょなくお守りを踏んづけられる人は、それほど多くないと思う。

 どうすればいいのか。思い込みに抗するには、別の思い込みに頼るしかない。物を捨てるチャンスは、ちょっと嫌なことが起きた時に訪れる。物が運気を左右する理論でいえば、嫌なことが起こったということは、何らかの物が不運を招いている可能性がある。つまり運気をよくするには、物を捨てた方がいいということになる。ところで、なぜか今Wi-Fiが遅くなっているので、何か物を捨てるべきか迷っている。いや、まずルーターの設定を確認すべきですよね。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)

1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

「週刊新潮」2024年6月20日号 掲載