義足のジャンパー山本篤、プロの矜持「誰かに左右されず自分で区切りつけたかった」/独占手記1

AI要約

パラ陸上男子走り幅跳び義足クラス(T63=片大腿切断)の元世界記録保持者である山本篤が、現役引退の理由や選手生活を振り返りながら、プロアスリートとしての思いを語った。

山本篤は自身の競技における限界と自己満足との戦いや、パラリンピックでのメダル獲得についての苦悩を明かし、引退を決意した背景を説明した。

また、プロアスリートとしての立場やパラリンピック選手の経済的な問題についても言及し、パラ競技の変革についても考察している。

義足のジャンパー山本篤、プロの矜持「誰かに左右されず自分で区切りつけたかった」/独占手記1

 パラ陸上男子走り幅跳び義足クラス(T63=片大腿切断)の元世界記録保持者、山本篤(42=新日本住設)が現役引退した。27日に会見を開き、自らの口でさまざまな思いを語った。「義足のジャンパー」は会見後、日刊スポーツに手記を寄せて、あらためて引退に至った理由、プロアスリートとしての思いや今後について余すことなく記した。

 ■決断に至った理由

 ここで競技から退くことを決断しました。引退に至る決断を報告させていただきます。

 1つは世界と戦っていく中で自分が勝負できるのか、メダルを争えるのか、と考えた時に、もうそこには参加できない。入賞できてもメダル争いができなくなってしまった。それが一番の理由です。

 21年の東京パラの時は最高のパフォーマンスをするって自分に向けてすべてをやっていて、自己ベスト(6メートル75)を出すことができました。それでもメダルを取れることはできませんでした。16年のリオでメダルを取り、東京でメダルを逃した時に周りの評価が大きく変わりました。私自身、プロのアスリートとしてやっていますので、メダリストがメダリストでなくなったということです。

 パラリンピックを目指す以上、メダル争いをどれだけできるのか、自分の技量っていうのはどのあたりなのか。出るだけでは意味がないし、ただの自己ベストを目指してやるのは自己満足で終わってしまう。メダル争いができなくなったタイミングで、プロのアスリートとしては失格かなと思いました。

 そして、どこかで区切りをつけなければいけない。ズルズルと続けようと思えば続けられる。入賞できて戦っていられるのかもしれない。けれど、どこかで区切りを付けると思った時に、誰かに左右されて区切りを付けるのでなく、自分自身で選択して区切りを付けたい。今回も自分でパラリンピックの枠を取れなかった時点で、もうパラ陸連に選択をされて行く。それよりも、自分で選択をして、代表にならない。引退するという決断になりました。

 最初の04年アテネ・パラに落選した時に思いました。ギリギリのラインにいて、選んでもらえる、もらえない状況を作るのでなくて、選ばざるを得ない状況を作らないといけない。だから、次の08年北京パラは出るだけじゃなくてメダル争いをする。「自分を出さなかったら誰出すの?」っていうぐらいに頑張りました。「選択せざるを得ないでしょ」という状態で、今まではパラリンピックに出てきました。そういう意味でも、自分で選択してやめるという決断をしました。

 ■キャリアを振り返り

 パラアスリートとしてパラリンピックに出る以上、メダルを目指すというところを多くの人に意識してもらいたいと考えています。陸上競技でウイナーと言われる選手は順位で3位までです。そこを多くの人に目指してほしいとの願い込め、私の引退を持って、パリのパラリンピックに臨む選手たちにはそういう意識を持ってもらえたらうれしいです。

 自分の競技を振り返れば、16年に当時の世界記録(6メートル56)を出したのは大きかったです。自分自身、世界一になれた。そして世界選手権でも1位を取れた。ただ4年に1度のパラリンピックでは金を取ることができなかったというのは悔しい思い出です。

 08年の北京で初めてパラリンピックに出た時に、取材に来た記者は社会部の方でした。私自身、アスリートとしてやっていましたので「自分は社会の福祉のためにやっているわけではない」と思いました。

 本当にアスリートとして頑張っている姿を多くの方に知ってもらいたい、リハビリではない、福祉でもない、スポーツなんだと。自分の中でその心は曲げたくなかったからです。もう絶対トップでい続ける、い続けなければいけない、ずっと進化し続けていたい。後は自分の限界を、自分でこうかなって思うところまで競技にまい進したいという気持ちでここまでやってきました。

 21年の東京パラリンピックの後、歯車がかみ合わなくなって故障もしました。昨年は記録も出せずに最悪なシーズンでしたが、今年に入ってからはトレーニングも積めて、ここまでやってきました。期間は少し短かったですが、自分の中では現状、見えているのは6メートル70~75でした。自己ベストにギリギリ届くか、届かないかと思った時に、もう自分で終わりなのかなというのが1つ決め手になった気がします。

 今のジャンプを見た人から「もう少し行けるんじゃないか」と言われました。でもパリ・パラリンピックで7メートルまで届くのか、メダルに手が届くのか、と考えたら、厳しいなと自分で思ってしまいました。自分の中でそう思った以上、もう蓋をされた状態なのです。今まではもっと記録を出そう、世界記録なら今日出せるかもしれない、自己ベストなら出るっていう意識の中でやっていました。

 世界記録を出した時も「今日じゃなければ出せないかもしれないから今日やる」という思いでした。当時も腰を痛めていましたけど、世界記録を出しに行くって言って世界記録を出せた。東京パラの時も「もう絶対に自己ベストを出せる」と思っていたので、自己ベストを出して終えることができました。

 やっぱり自分のイメージをできるって思っている時はできる。逆に今は自分の中でこれぐらいかなという蓋が見えてしまった。そうなった時にこれ以上続ける意味あるのか、こんな状態ではやっていけないと思いました。

 ■パラ競技に変革

 17年10月にプロ宣言しました。パラスポーツ界ではプロとしてやっていけるのか? 選手はどうやって生活しているのか? そういうものがあまり見えてきませんでした。

 ひもじい思いをしながら、生活を切り詰めて何とかやっているのはプロではないと思っていました。しっかりスポンサーから対価を得て競技を行う、メディアに出る、そして結果を残すというところにフォーカスしたアスリートでありたいと考えました。

 お金の問題には日本では蓋をするところがあります。実業団の選手がどれだけもらっているの? しっかり競技できているの? そういう疑問がある中で、僕としてのプロアスリートの立場で「このぐらいもらえるよ」と、そういうところからプロとして発信できたというのはすごく良かったと思います。

 私が東京パラでうれしかったのは、車いすテニスの国枝慎吾選手が金メダルを取った時に所属するユニクロから1億円が出たことです。私の場合は金メダルならボーナス3000万円でした。だから「国枝選手だったらもっとでしょ?」というのもあったと思います。

 私が金額を公開してなかったら、あそこまでにはならなかった。今までは金メダルを取っても、多分そんなに出てなかったと思います。ただ一流のプロアスリートであれば、しっかり結果を残せば対価を得られるというのが正常な世界だと考えています。

 (※2に続く)