岐阜高島屋より老舗!…何でもそろう「富士屋デパート」 主力商品は雨具と軍手

AI要約

岐阜高島屋が閉店して1カ月、富士屋デパートが輝き続ける。

創業者一二三さんの思いと地域密着を大切にした歴史あるデパート。

常連客へのサービスを徹底し、地元の人々から愛され続ける富士屋デパート。

岐阜高島屋より老舗!…何でもそろう「富士屋デパート」 主力商品は雨具と軍手

 7月31日に岐阜高島屋が閉店し、岐阜が“百貨店なし県”となってちょうど1カ月。47年前に開店した岐阜高島屋よりさらに古くからある「デパート」は、今も明るく来店客を迎える。岐阜市玉宮町の「富士屋デパート」。何でもそろうと信頼の厚い店は、有名人も訪れる“話題のデパート”でもあった。

 ガラスの引き戸を開け店内に入ると、右手に野菜や飲料が入った冷蔵庫、左手のショーケースには菓子やパンがずらり。聞けば国内最大手の山崎製パンの商品を県内で初めて取り扱い、表彰を受けたとか。創業者竹中一二三さんの妻靖子さん(86)が奥のカウンターからにこやかに出迎える。

 富士屋デパートは1958年、名古屋市のメリヤス問屋へ修業に出ていた一二三さんが、現在地の程近くに「富士屋メリヤス」の名で創業した。当時の玉宮は国鉄岐阜駅につながる、旅館が並んだうら寂しい通り。「こんな場所で商売になるのか」と靖子さんは心配したが、衣類を中心に良い品を安く売る店はすぐに評判を呼んだ。食料品や贈答品、おもちゃにまで品ぞろえを広げ、63年4月、現在地に「デパート」の屋号で新たなスタートを切った。3年後には店舗の面積を2倍に拡充。新装オープン日、通りは客で埋め尽くされ警官20人が出動する大にぎわい。くす玉が割れると、中に仕掛けたニワトリ10羽が空から華々しく舞い落ちた。「今ならあり得ないこと」と2代目の一彦社長(62)は笑う。さらに75年9月には5階建てビルを新築、1~3階を売り場にした。

 一二三さんが「デパート」と名付けたことを、靖子さんは「近くにあった山勝、丸物百貨店のようになりたいという思いから」と回想する。実際にはデパートにないものまで豊富。主力商品の雨がっぱや軍手、長靴は、今は倉庫となった3階に段ボール箱が山積みとなりいつでも出荷OK、大量発注にもすぐ応える。

 一二三さんがプロレス好きとあり、ジャイアント馬場さんやその付き人時代のアントニオ猪木さんが来店。店内には写真が飾られる。終戦後も潜伏を続け72年に帰国した元日本兵横井庄一さんには手紙で感動を伝えたところ、来店がかなった。本人直筆の「孤独廿八(にじゅうはち)年」の色紙は大切に保管されている。

 近隣の飲食店など約50店を得意先とし、生鮮食品や調味料、業務用洗剤もそろえる。「注文があれば必ず届ける」を合言葉に、新型コロナ下でもマスクや消毒液の在庫を切らさなかったのが自慢だ。最近でも卵、そしてコメ不足に対応。「品切れで困るとすぐうちの店に連絡してくれる」と一彦社長が誇らしげに語れば、弟の裕二専務(55)も「取引先にも顧客にも恵まれているから、長年店を続けることができている」と言葉を添える。

 創業時からの常連のために、肌着は店先の目立つ場所に陳列。客を大切にする思いは一二三さんから受け継がれている。玉宮の街は近年、飲み屋街としてにぎやかになった。百貨店はなくなったが-。一彦社長は言う。「『岐阜には富士屋デパートがある』と言ってもらえればうれしい」