早いとご褒美、道中は命がけ、薩摩藩は圧倒的に29日付…ナニコレ? 知らなかった手紙の世界

AI要約

旧暦の呼び名である7月23日は「文月(ふみづき)ふみの日」であり、手紙の歴史や日本での郵便制度の前にはどのように手紙を届けていたかについて解説されている。

江戸時代には飛脚が活躍し、薩摩藩では手紙が重要な情報源だった。飛脚の到着日によって褒美の額が変わり、飛脚の速さが重要視されていた。

薩摩藩の英国留学生や幕末の志士たちも手紙を出しており、留学生たちは出国時に手紙を出す手段を確保していた。また、戦乱期に手紙を運ぶことは命がけの任務であり、山伏や忍者がその任に就いていた。

早いとご褒美、道中は命がけ、薩摩藩は圧倒的に29日付…ナニコレ? 知らなかった手紙の世界

 7月23日は旧暦の呼び名と語呂合わせで「文月(ふみづき)ふみの日」だ。手紙の歴史は古く、鹿児島には島津家関連のほか、薩摩藩英国留学生らが海外から出したものが残っている。ただ、日本で郵便制度が創設されたのは明治初期の1871年。それ以前はどのように届けていたのだろうか。

 「電話もメールもない時代、手紙は情報を伝達する数少ない手段だった」と解説するのは、黎明館の崎山健文主任学芸専門員。届ける手段は基本的には人づてで、差出人が信用する人物に預けたり、家臣を使者に立てたりとさまざまな手段を使ったと考えられる。また、使者が差出人からの伝言を口頭で付け加えた上で、相手に渡すケースもあったそうだ。

◇早く着くと褒美

 江戸時代には、飛脚が活躍した。日本の南端にある薩摩藩にとっては、江戸と国元、双方の状況を把握するため、手紙は重要な情報源だった。公的な便りは「式日御使(しきじつおつかい)」と呼ばれていた。

 「鹿児島県史料 斉彬公史料」には島津斉彬が出した書簡が収録されている。目次を見ると、毎月29日付が圧倒的に多い。これは式日御使が出立するのは、29日と決まっていたからだ。

 斉彬の時代、薩摩-江戸間の参勤交代の移動には45~50日前後かかった。これに対し、飛脚は船と陸路で16日半~17日の「早」、22日~23日半の「中急」という体制があったと記録に残る。予定より早く到着した飛脚には褒美が出た。13日で運べば「銭5貫文」、14日なら「4貫文」が与えられたという。

◇グラバー関与も

 鎖国下でひそかに出国した薩摩藩英国留学生たちも手紙を出している。上野良太郎(町田久成)がイギリスから西郷隆盛、大久保利通らに宛てたものには「飛脚の刻限」とある。別な手紙には「飛船期に当たり」との記載もあり、何らかの連絡手段が確保されていたようだ。

 志學館大学の原口泉教授は「日本国内の外国人居留地向けの郵便船があり、それで運んでいたのだろう」と指摘。留学生の出国に協力した長崎の商人・グラバーの関与も考えられるという。

 幕府の文久遣欧使節に参加した松木弘安(寺島宗則)はロシアから手紙を出そうとしたが、「同所より便なき」と、送る手段がなく、フランスから送ったと書き残す。また、明治9年9月に米国フィラデルフィアにいた薩摩藩出身の川崎祐名の家族宛ての手紙には、「10月初めの船」で先に帰国予定の同行者に託すと書かれている。

◇命がけの任務

 一方、南北朝や戦国といった戦乱期は、手紙を運ぶことは危険な任務だった。原口さんは「活躍したのが、鍛えられた山伏や忍者だった」と話す。途中で敵や山賊に奪われたり、大雨などの災害に巻き込まれたり。届かないことを想定して複数出すケースもあったという。

 原口さんは「現代と違い手紙を届けることは命がけでもあった。手紙から得られる情報がそれだけ当時の人々に大事だったということの裏返しでもある」と語った。