瀬戸大橋開通で「マリンライナー増やしても運びきれない」…一転「高速道路が恐ろしい勢いでできた」

AI要約

1987年4月1日、高知駅でのJR四国誕生の瞬間から始まり、民営化後の経営不安と経営安定基金の役割、そして瀬戸大橋開通による事業拡大までの道のりが描かれている。

民営化後のJR四国は不安定な経営状況に直面しながらも、地域密着を掲げる経営理念を持ち、経営改革を図る姿勢が強調されている。

瀬戸大橋開通により、四国と本州を結ぶ交通インフラが整備され、利用者数が急増したことが経営にプラスの影響をもたらした。

 1987年4月1日午前0時、高知駅1番ホームは、埋め尽くす人々の熱気に包まれていた。エールと手拍子に送られながら、JR四国の一番列車「いい日旅立ち号」が高松へ走り出した。

 この日、国鉄が分割民営化され、JR旅客6社とJR貨物が誕生した。JR四国初代社長の伊東弘敦さん(91)は、当時の心境を社史で振り返っている。「セレモニーを済ませたものの、心の中は不安だった。もともと経営安定基金を持って発足した三島会社だから、そう簡単に収支が良くなるはずはない」

 新幹線や都市部の路線を抱える本州のJR3社と異なり、北海道、四国、九州は「三島会社」と呼ばれ、民営化後の経営状況は危ぶまれていた。

 国は三島会社には経営安定基金を割り当て、経営を支えるスキームを作った。四国は2082億円。年7・3%の利率で運用した場合、その運用益で、鉄道事業の赤字を 補填ほてん するとの算段だった。

 国鉄改革を巡る国会議論で野党側から三島会社の経営見通しを疑問視する声が出ても、政府は「運用益で黒字を維持できる」と強調。ただ、当時を知るJR元幹部が「基金は手切れ金だった」と振り返るように、不安の中での船出だった。

 3代目社長を務め、発足当時は経営管理室長だった松田清宏さん(77)は、社員に初めてのボーナスを支給した後の伊東さんの 安堵(あんど)した表情が忘れられない。「社長は『ボーナス払えて良かった』と。それくらい厳しかったんですよ」

 87年度の営業収益は352億円、営業費501億円で149億円の赤字となったが、基金運用益などを加え、最終利益は2億円だった。

 「四国に根ざした会社として、広く四国の経済・文化の向上に寄与する」。87年10月策定の経営理念は、地域密着を掲げ、国鉄時代からの変革を鮮明にした。

 追い風は、翌88年4月の瀬戸大橋の開通だった。これまで宇高連絡船が就航していた瀬戸内海が鉄路で結ばれ、快速「マリンライナー」や特急が行き交う。四国と本州の移動は大幅にスピードアップし、当初は「マリンライナーの車両を増やしても運びきれない」(松田さん)ほど利用者が増えた。88年度の営業収益は前年度比24%増の437億円になった。